讃岐 牟礼の里 饂飩料理 郷屋敷
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国指定登録有形文化財 郷屋敷の由来
初代当主柳次郎は、今からおよそ250年前に牟礼の里への移り住み、四代目当主、半三郎義勝は、苗字帯刀を許され、高松藩から「与力」の命を受け、牟礼大町村の行政司法、警察の任に当たり、それ以降は近郷一円を治め高松藩に仕えてきました。以来周辺の人々から「与力屋敷」として親しまれてきました。「与力」とは鎌倉時代には力を与にして加勢する人を意味し、江戸時代には上官を助ける職制として与力制度を設置、各地方を治めた。
又、半三郎義勝は温順にして人望厚く、文化人でもあり、牟礼を訪れる各地の著名な粋人、名人、達人、奇人を持て成し、宴を催し、文化交流の場としても栄えた。

The Origins of Go-Yashiki
Ryujiro, the first master of Go-Yashiki, moved to Mure no Sato about 250 years ago.
Hanzaburo Yoshikatsum, the fourth master, was permitted by special edict of the Lord of Takamatsu to use a surname and carry the long sword of the samurai. He received the title of "Yoriki" and was commissioned to undertake the administration of the judiciary and the constabulary of Mure Omachi-Mura. He soon came to govern all of the area surrounding Mure no Sato and took service under the Lord of Takamatsu.
From that time onwards, the manor became well known among local people as "Yoriki Yashiki". The term "Yoriki" came into use in the Kamakura Period and referred to the lords or leaders who joined their forces to give increased strength to the greater warlord. In the Edo Period, the Yoriki system became a widespread and an institutionalized formal office. The men serving as assistants to top government officials administered regional affairs.
Hanzaburo Yoshikatsu was known as a man of culture, with a gentle nature, who was well liked and popular among the people. Many prominent people visited and all were warmly welcomed, masters of the arts and sciences, sophisticates and eccentrics. As such, Go-Yashiki was a center for social, cultural, and activities.


 郷屋敷のある牟礼町は、高松市の東部に隣接し、志度湾を抱くように田園風景の広がる丘陵地帯である。この屋敷は平賀源内の出生地として有名な志度町から高松市の栗林公園に至る県道沿いに位置する。
井上家がこの地に定住したのは江戸時代の中期である。代々農業を営みながら、格を膨らまし力をつけていった。4代目の当主時には与力の職を受かり、名字帯刀を許されて近郷一円を治める程に成長した。その後も高松啓に仕え与力の職を全うし、行政、司法、警護の任に当たり、地域の発展に貢献してきた。
屋敷は、県道に南面しており、東蔵・米蔵・蔵(長屋)が道路に沿って東西に並ぶ。中央の表門を潜ると前庭が広がり、左右に御影石の石畳が敷かれる。蔵と並行に左に進み、蔵の半ばほどで直角に奥へアブローチすると、屋敷のほぼ中央に位置する整形八間取りの主屋が建つ。主塵は四国の平野部に多く観られる寄せ棟造り茅葺き屋根で、四方に下屋を回す『お董造り―下屋造り』の大規模な建物である。主屋の北側に中庭を挟んで離座敷が廊下(回廊)で繋がれた。東側は、重厚な練塀を巡らし南庭と奥庭の中央には、客用の便所と湯殿が建つ。北側は二つの蔵を練塀で繋ぎ、西伽は蔵と倉庫を並べて正面道路まで練塀が回る。
現在この屋敷は、精粋讃岐料理と名付けられた会席料理に手打ち讃岐うどんを加えた料理店『郷屋敷』として活用されている。道路側に南面した蔵は、喫茶室や売店、待合室として利用され、北西の三つの蔵は、業務用の倉庫や食品庫に使用されている。蔵の顔や姿を変えずに、6棟の蕨を上手に使っている。主屋は中央に敷かれたタタミ廊下の両側に、4室ずつ合計8室の部屋がある。一番奥の部屋が上座敷で、数奇屋風の書院や欄間など、往時の姿を活かして接客の場所を提供しているのは、使用者や所有者がこの屋敷め価値を理解している証である。飲食業に用途を変更したときに、一番頭を悩ましたのが厨房であったそうで、主屋の釜屋とその裏の庭を取り込み、厨房としていることが、大きな改造跡である。その他にも東の湯殿を客室に用途変更しているが、旧来の姿に戻すことも可能な改造である。
以上のように郷屋敷は、建築年代や意匠はもちろんのこと、主屋と離座敷の形態、正面の四脚門と庭の境に設けた薬医門、屋敷に建つ6棟の蔵とも各々の特徴を持つものであり、周辺を巡らす砦とも思えるような練塀や、前庭、奥庭、南庭、西庭もきちんと整備されている。自然に溶け込み、さらに自然を惹きたてているともいえるこの屋敷は、当地方における富豪農家の典型的代表例である。またこれらの建物は、修繕されながら現在に至っているが、当初の形態がよく保存されており、登録有形文化財登録基準<平成8年文部省告示152号>の「二造形の規範となっているもの」該当するものと考えられる。
文化財登録文献より
H13.10.12登録